曹洞宗総持寺直系 大宮山東光寺

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由緒・歴史

東光寺草設~禅宗への改宗

大宮山東光寺は大治3年(1128)頃、紀伊国(現和歌山県)熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶・宥慶阿闍梨ゆうけいあじゃりが関東へ下った際、足立原に宿泊し、大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を退治し、その側に坊舎(庵)を建立し、東光坊と号して庶民救済のために開いたのが草創です。
したがって、草創当時は天台宗であり、「熊野の光明が東国に輝いた」ということから東光防の名がつけられました。

その後、永享年間(1429〜1440)に梁室元棟和尚が曹洞宗に改宗して開山となりました。

現在地に寺を移転、近代仏教学の礎を築く

寛文年間(1661〜1672)東光寺11世鉄船大牛和尚が中仙道開通のため寺を現在地(宮町)へ移転し、伽藍を再興しました。鉄船大牛和尚は寺門興隆に努めた勲功により中興号が贈られています。
元禄9年(1696)には、14世拈山放牛和尚によって鐘楼が建立されました。また、享保6年(1721)にも15世大津全教和尚により新しく梵鐘が鋳造されています。

28世大中京粲和尚は、駒込吉祥寺にある栴檀林せんだんりん(江戸期の宗門僧侶の最高学府)の佐土寮寮主を勤めた学僧で、後継ぎである法嗣に原坦山和尚がいます。
坦山和尚が出家することになった逸話は有名ですので、簡単にご紹介いたしましょう。
出家前の坦山は栴檀林で儒学を講義していた学者でした。ある日、講義の時に仏教を誹謗したため、議論に負けた者が勝者の弟子となることを約束し、京粲和尚と儒仏道の議論を行うことになりました。数日後、ついに坦山和尚は降伏することとなったのでした。そして、天保11年(1840)坦山和尚の剃髪式が東光寺において行われたのです。
その後、坦山和尚は東京帝国大学のインド哲学の初代講師に就任するなど伝統的解釈の仏教学に対し、実験的仏教研究を行なって近代仏教学の礎を築きました。

庶民教育の場として発展していく町に貢献した明治期

明治期になると、寺子屋が開かれました。漢学者・上山寿山らが漢学などを教え、庶民教育の重要な機関ともなっていました。しかし、明治8年12月18日に火災を被り、伽藍を焼失。同29年には、仮本堂が再建され、その後、国鉄大宮駅が誘致されたことにともなって寺域周辺は現在のような賑やかな街となりました。

歴史と現代の融合したお寺へ

昭和52年11月、先代住職大本山総持寺独住第二十二世貫首、東光寺三十九世成田芳髄ほうずい和尚は、開山500回大遠忌だいおんきを迎える記念事業として、山容綜合整備事業を発願し現代の新様式をとり入れた本堂などの整備にとりかかり、平成3年5月、本堂落慶を迎えました。

平成10年より住職した富山市自得寺住職松本誠諦じょうたい和尚が東光寺四十世となり、客殿や山門、涅槃堂が建てられ、先代住職の山容綜合整備事業が完成して現在のような歴史と現代的な感性が融合した新しいタイプのお寺として生まれ変わったのです。

東光寺は草創以来880余年の歴史がある名刹です。
『新編武蔵風土記稿』巻153にもとりあげられていて、中仙道を行き来する文人墨客が足を留めた所でもあります。上山寿山はもとより、近代漫画の祖と称される北沢楽天きたざわらくてん、大宮市発展の礎を築く駅の誘致に努めた白井助七しらいすけしちなどの墓碑も東光寺にあります。

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